歴史に隠されたもう一人の日本人妻
日本人なら誰でも知っているセレブリティ、デウィ夫人は、インドネシアのスカルノ初代大統領の第6夫人です。
しかし実は、スカルノ大統領にはもう一人日本人の妻がいました。その女性の名は、カナセ サキコさんです。
サキコさんは1958年にスカルノ大統領と結婚し、第5夫人となりました。しかし、翌年にスカルノ大統領がデウィ夫人と恋に落ち、結婚したことで心を病み、1959年に自ら命を絶ちました。
スカルノ大統領はこの妻の自殺を不名誉に感じたとみられています。事件を公にすることを好まず、静かに処理させました。サキコさんは公式の伝記や歴史書にはほとんど登場せず、「非公式な妻」として扱われています。そのため、その存在は長らく知られず、デウィ夫人以外に日本人妻がいたことはほとんど知られていません。
今回は、ニュースサイト disway.id の記事を翻訳し、サキコ・カナセさんの物語をたどります。
元記事を読みたい方はこちら:
Kisah Tragis Sakiko Kanase, Istri Soekarno yang Bunuh Diri karena Cemburu
記事のタイトル
「Kisah Tragis Sakiko Kanase, Istri Soekarno yang Bunuh Diri karena Cemburu」
「嫉妬で自殺したスカルノの妻、カナセ・サキコさんの悲劇」
- Kisah(キサ)[名詞]:物語、話、出来事
- Tragis(トラギス)[形容詞]:悲劇的な、痛ましい
- Bunuh Diri(ブヌ・ディリ)[動詞句]:自殺する
- Cemburu(チュンブル)[形容詞/動詞]:嫉妬している、やきもちを焼く
記事の本文
スカルノ大統領と10人の妻たち
Sudah banyak yang tahu bahwa Presiden Pertama Republik Indonesia, Soekarno, memiliki banyak istri.
インドネシア共和国初代大統領スカルノには、多くの妻がいたことは、多くの人に知られています。
Menurut catatan sejarah, sang Proklamator memiliki 9 istri di antaranya Siti Oetari Tjokroaminoto, Inggit Garnasih, Fatmawati, Hartini, Ratna Sari Dewi, Haryati, Yurike Sanger, Kartini Manoppo, dan Heldy Djafar.
記録によれば、「独立宣言の父」である彼には、シティ・ウタリ・チョクロアミノト、インギット・ガルナシ、ファトマワティ、ハルティニ、ラトナ・サリ・デウィ、ハリヤティ、ユリケ・サンゲル、カルティニ・マノッポ、ヘルディ・ジャファルの9人の妻がいました。
Di antara 9 nama yang tercatat, ada satu nama istri Soekarno yang tidak tercatat dalam sejarah namun kisahnya terkenal yakni, Sakiko Kanase alias Saliku Maesaroh.
記録されている9人の名前の中で、歴史には残っていないものの、その物語が有名なスカルノの妻が1人います。それは、サキコ・カナセ(インドネシア名 サリク・マエサロ)です。
サキコ・カナセの経歴と数奇な運命
Banyak informasi menyebutkan, Sakiko memilih bunuh diri karena cemburu dengan Naoko Nemoto alias Ratna Sari Dewi.
多くの情報によれば、サキコはナオコ・ネモト(別名ラトナ・サリ・デウィ=デウィ夫人)への嫉妬から自ら命を絶ったとされています。
Ya, Sakiko dan Naoko adalah 2 wanita Jepang yang memikat hati ‘Bung Besar’. ‘Bung Karno’
そうです、サキコとナオコは「ブン・ブサル」=「ブン・カルノ」の心を射止めた2人の日本人女性でした。
Sakiko yang terlebih dahulu dinikahi Soekarno, sebelum Soekarno menikah dengan Naoko Nemoto.
サキコは、スカルノがナオコ・ネモトと結婚する前に、先に結婚していた妻でした。
Soekarno pertama kali bertemu dan jatuh hati pada pandangan pertama dengan Sakiko Kanase saat melawat ke Jepang tepatnya di Kyoto.
スカルノ大統領がサキコ・カナセさんと初めて出会い、一目で恋に落ちたのは、日本を訪問した際、正確には京都でのことでした。
Pernikahan Soekarno dengan Sakiko Kanase berlangsung di Hotel Daiichi, Kota Ginza, Jepang pada tahun 1958.
スカルノ大統領とサキコ・カナセさんの結婚は、1958年、日本の銀座にある第一ホテル東京(Hotel Dai-ichi Tokyo)で行われました。
Akun Twitter Sejarah Nusantara @indo_history101 menulis “Ia (Sakiko Kanase) adalah seorang wanita Jepang yang berhasil meluluhkan hati Soekarno. Pada awal pertemuannya dengan Soekarno, Sakiko Kanase adalah seorang model kala itu,” tulis akun tersebut.
インドネシア史アカウント「Sejarah Nusantara」(@indo_history101)はこう書いています。
「彼女(サキコ・カナセ)はスカルノの心を見事にとらえた日本人女性です。スカルノと出会った当時、サキコ・カナセはモデルでした」と投稿しています。
Sakiko dengan nama panggilan Keiko Kondo, wanita Jepang pertama yang dinikahi Soekarno.
サキコさんは「ケイコ・コンドウ」という愛称でも呼ばれており、スカルノ大統領が結婚した最初の日本人女性でした。
Setelah resmi menjadi istri ke-5 Presiden RI Pertama, Sakiko kemudian memeluk Islam dan tinggal di Menteng, Jakarta Pusat.
初代インドネシア大統領の第5夫人となった後、サキコさんはイスラム教に改宗し、ジャカルタ中心部のメンテン地区に住むようになりました。
Soekarno kemudian memberi nama Indonesia Sakiko menjadi Saliku Maesaroh.
その後、スカルノ大統領はサキコさんにインドネシア名「サリク・マエサロ」を与えました。
Lalu bagaimana hingga Sakiko Kanase akhirnya bunuh diri ?
では、なぜ最終的にサキコ・カナセさんは自ら命を絶つことになったのでしょうか。
日本企業のロビー活動とナオコさん(デウィ夫人)
Semua berawal dari lobi-lobi bisnis. Perkenalan dengan Sakiko Kanase pun bagian dari lobi bisnis perusahaan Jepang kala itu.
すべてはビジネス上のロビー活動から始まりました。サキコさんとスカルノ大統領の出会いも、当時の日本企業によるロビー活動の一環だったのです。
Saat itu, ada 2 perusahaan Jepang yang sedang proses lobi bisnis dengan Soekarno.
当時、日本の2つの企業がスカルノ大統領に対してビジネスロビーを進めていました。
Lobi tingkat tinggi untuk proyek pembangunan Indonesia dari hasil pampasan perang Jepang.
これは、日本からの戦争賠償を利用したインドネシアの開発プロジェクトをめぐる高レベルの交渉でした。
Ada Perusahaan Jepang bernama Kinoshita Grup dan Tonichi Trading Company milik Kubo Masao.
その2社は「木下グループ」と、久保正雄氏が経営する「東日貿易株式会社」でした。
Saat berkenalan dengan Soekarno, Sakiko adalah model dan guru privat Kinoshita Grup.
スカルノ大統領と出会った当時、サキコさんは木下グループのモデル兼家庭教師をしていました。
Singkat cerita, setahun setelah Soekarno dan Sakiko menikah, Kubo Masao mulai melancarkan aksinya, mengenalkan Soekarno dengan Naoko Nemoto(=Dewi), bagian dari lobi bisnis.
簡単に言うと、スカルノ大統領とサキコさんが結婚してから1年後、久保正雄氏が行動を開始し、スカルノ大統領にナオコ・ネモトさん(デウィ夫人)を紹介しました。これもビジネスロビー活動の一部でした。
Sejarawan Jepang Aiko Kurasawa menyebutkan, Naoko juga merupakan bagian dari lobi Tonichi Trading Company yang merupakan saingan.
日本の歴史学者・倉沢愛子氏によると、ナオコさん(デウィ夫人)はライバル企業である東日貿易株式会社のロビー活動の一員だったそうです。
Kinoshita Group dalam perebutan proyek-proyek bisnis di Indonesia.
インドネシアでのビジネスプロジェクト獲得をめぐり、木下グループと東日貿易は競い合っていました。
Naoko Nemoto merupakan gadis Jepang cantik yang saat itu masih berusia 19 tahun.
ナオコさんは当時19歳の美しい日本人女性でした。
Dalam beberapa informasi menyebutkan bahwa Naoko seorang ‘Geisha’ namun hal itu dibantah oleh Naoko Nemoto atau Ratna Sari Dewi.
一部の情報ではナオコさんを「芸者」だとする説もありましたが、本人であるナオコさんはそれを否定しています。
Pertemuan dengan Naoko membuat Soekarno kembali jatuh cinta. Dua kali Soekarno bertemu Naoko di Hotel Imperial sebelum Soekarno pulang ke Indonesia.
ナオコさんとの出会いによって、スカルノ大統領は再び恋に落ちました。インドネシアに帰国する前に、スカルノ大統領はナオコさんとインペリアルホテルで2度会っています。
Hubungan dengan Naoko rupanya terus berlanjut dengan surat menyurat. Soekarno pun mengundangnya ke Indonesia. Naoko Nemoto tiba di Indonesia pada 14 September 1959.
ナオコさんとの関係は手紙のやり取りを通じて続き、スカルノ大統領は彼女をインドネシアに招きました。ナオコ・ネモトさんは1959年9月14日にインドネシアに到着しました。
Di Indonesia, Naoko kemudian tersadar jika Kubo memanfaatkannya untuk melancarkan bisnisnya di Indonesia.
インドネシアで、ナオコさんは久保氏が自分を利用してインドネシアでのビジネスを進めていたことに気づきました。
Namun, Soekarno bergeming lantaran sudah terlanjur jatuh hati pada Naoko.
しかし、スカルノ大統領はすでにナオコさんに深く恋しており、その気持ちは揺らぎませんでした。
Nah, kehadiran Naoko di Indonesia inilah yang membuat Sakiko Kanase cemburu. Sakiko merasa tercampakkan dan terbuang.
悲劇の結末へ
そして、ナオコさんのインドネシア到着こそが、サキコ・カナセさんの嫉妬を引き起こしました。サキコさんは自分が捨てられ、追いやられたと感じました。
Sebab, Soekarno yang baru menikahi Naoko pada 1962 telah menjadikan perempuan senegaranya itu sebagai perempuan favorit.
なぜなら、スカルノ大統領は1962年にナオコさんと結婚すると、同じ日本人女性である彼女を特別扱いし、お気に入りの存在としたからです。
Enam belas hari usai kedatangan Naoko, Sakiko memutuskan mengakhiri hidup dengan cara bunuh diri.
ナオコさんの到着から16日後、サキコさんは自ら命を絶つことを決意しました。
Dia nekat mengiris urat nadinya hingga tewas mengenaskan di kamar mandi.
サキコさんは手首を切って亡くなりました、浴室で悲惨な姿で亡くなりました。
Saat kejadian itu, Soekarno dan Naoko Ratna Sari Dewi sedang berkunjung ke Bali sekitar 30 September 1959.
その事件が起きたとき、スカルノ大統領とナオコ・ラトナ・サリ・デウィさんは1959年9月30日ごろ、バリを訪問中でした。
“Dan tragis, Sakiko Kanase mengiris nadinya. Kejadian itu persis enam tahun lebih dulu dari Gerakan 30 September 1965,” tulis akun Twitter Sejarah Nusantara.
「そして悲劇的なことに、サキコ・カナセは手首を切りました。この出来事は、1965年の9月30日事件よりちょうど6年前のことでした」と、ツイッターアカウント「Sejarah Nusantara(ヌサンタラ史)」は書いています。
「なかったこと」にしたかったスカルノ大統領
Kabar Sakiko tewas bunuh diri membuat Soekarno kaget bukan kepalang. Soekarno pun menangis mendengar istrinya dari Jepang itu tewas.
サキコさんが自殺したという知らせは、スカルノ大統領を大変驚かせました。大統領は日本人妻が亡くなったと聞いて泣きました。
Soekarno lantas meminta bawahannya untuk mengurus pemakaman istri Jepangnya itu dengan baik tanpa menarik perhatian orang-orang dan media.
その後、スカルノ大統領は部下に、人目や報道の注目を集めないよう配慮しつつ、サキコさんの葬儀をきちんと行うよう命じました。
Sakiko dimakamkan di Blok P, Jakarta Selatan. Namun sekitar akhir 1970-an kabarnya pihak keluarga memindahkan kerangka Sakiko ke Jepang.
サキコさんは南ジャカルタのカンプン・ブロックP墓地(Kampung Blok P)に埋葬されましたが、1970年代末ごろ、遺骨は遺族によって日本へ移されたといわれています。
ファクトチェック
この記事の内容は本当?ChatGPTでファクトチェックしてみました。細かい部分をのぞいて記事の内容は概ね正しいようです。
1. 結婚と改宗について
サキコ・カナセ(Sakiko Kanase)は、日本人のホステスでありモデル、家庭教師で、1958年にスカルノ大統領と結婚し、イスラム教に改宗してSaliku Maisarohというインドネシア名を与えられました。史実として確認できます
2. 自殺の経緯と日時
彼女はスカルノとの結婚から約1年後、1959年10月3日にジャカルタ・メンテンで自ら命を絶ったとされています。記事では「ナオコ到着から16日後」=1959年9月30日ごろに自殺とされており、日が一致しません。総合的に見ると、正確な死亡日時は「1959年10月3日」だとされています。
3. ナオコ・ネモト(デウィ夫人)との関係
- ナオコは当時19歳の美しい日本人女性で、Tonichi Trading Company を通じてスカルノに紹介されたという背景が複数の研究に記述されています。
- ナオコ訪問の後、約3週間ほどでサキコが自殺したという経緯も、歴史学研究に裏付けがあります。
4. 埋葬と改葬の事情
- サキコの葬儀はジャカルタ南部のブロックP墓地で行われました。1977年頃に遺族の希望により日本へ改葬された記録があります。
サキコ・カナセの物語が残したもの
インドネシアと日本の戦後史の一断面
サキコさんの人生は、単なる一人の女性の恋愛物語にとどまりません。そこには、戦後のインドネシアと日本の関係が色濃く映し出されています。
第二次世界大戦後、日本はインドネシアに対して戦争賠償や経済協力を進めていました。その一環として、多くの日本企業がインドネシアに進出し、政府要人との関係構築を目指してさまざまなロビー活動を展開しました。
サキコさんがスカルノ大統領と出会った背景にも、この政治的・経済的な流れがありました。彼女は偶然の恋愛相手というよりも、当時の国際関係の中で出会い、結婚することになった「時代の証人」だったのです。
政治・思惑・愛情が交錯した時代背景
1950年代後半から1960年代初頭にかけてのインドネシアは、国際政治の舞台で大きな存在感を示していました。非同盟運動の中心人物として名を馳せたスカルノ大統領は、各国から注目される存在であり、彼の周囲には政治家、実業家、そして魅力的な女性たちが集まりました。
サキコとスカルノの結婚は、純粋な愛情とともに、こうした複雑な政治的背景の中で築かれたものでした。しかし、その後に現れたナオコ・ネモト(ラトナ・サリ・デウィ)の存在は、二人の関係に大きな影を落とします。愛情、嫉妬、そしてビジネスの思惑が交錯する中、サキコは精神的に追い詰められていきました。
彼女の物語は、戦後アジアの国際関係、女性の立場、そして時代に翻弄された人間の心の動きを浮き彫りにしています。
