インドネシア現代史には、政府を批判した活動家・詩人・労働運動家・記者が、突如失踪したり、非業の死を遂げた事件が数多く存在します。とりわけスハルト政権(ニューオーダー時代、1966–1998)は、言論や民主化運動を厳しく弾圧したことで知られています。本記事では、その中でも特に有名な事件を時系列にまとめます。
マルシナ事件(1993年)― 女性労働者の拷問死
勇敢に声を上げた女性労働者の拷問死
🌼 マルシナさんの人物像
マルシナ(Marsinah, 1970–1993)は、東ジャワ州ングァウィ県出身の女性で、高校卒業後に家計を支えるため、スリキ工業団地の時計工場 PT Catur Putra Surya (CPS) で働き始めました。
普段は控えめでおとなしく、目立たない存在でしたが、理不尽な扱いを受ける同僚を見ると、小さな声でもはっきりと「おかしい」と言える芯の強さを持っていました。夜勤後もノートに言葉や計算を写し取り、「いつか事務職や記者になりたい」と夢を語っていたといいます。妹たちを学校に通わせるために給料の大半を仕送りしており、家族思いで責任感の強い性格でした。
1993年5月、同僚13人が突然解雇されたとき、危険を顧みずに「自分ひとりでも会社に抗議しに行く」と話し、実際に労働者代表として行動しました。それは名誉や報酬のためではなく、仲間のために声を上げるという純粋な気持ちからでした。
⚡ 事件の概要
1993年5月3日、CPS工場で最低賃金(UMR)引き上げと解雇撤回を求めるストライキが発生。
マルシナは代表として会社に抗議文書を提出したあと、消息を絶ちました。
5月8日、出身地に近い東ジャワ州ングァウィ県ウィルガン村の空き地で遺体として発見されます。
遺体には全身に打撲・拷問の痕があり、死因は暴行による内出血とされました。
⚖️ 捜査と裁判
- 当初、警察は「会社幹部による単独犯行」としてCPS幹部9人を逮捕・起訴。
- 被告たちは「軍による拷問で自白を強要された」と証言し、1995年に最高裁が全員無罪に。
- 一方で、同僚労働者や住民からは「マルシナは地方軍事コマンド(Koramil)に連行された」という目撃証言も。
- 軍人は誰ひとり起訴されず、事件は迷宮入りしました。
🗣 家族や政府側の対応
- 母親は「娘はただ真っ当な暮らしを望んだだけ」と語り、今も真相解明を求めています。
- 家族は繰り返し国家人権委員会(Komnas HAM)に再捜査を請願していますが、公式な再捜査は行われていません。
- KontraSなど人権団体は「司法制度が軍に配慮し、正義を放棄した事件」と批判。
- 一方、当時のスハルト政権や軍は「治安を乱す意図的な噂だ」とコメントし、軍への捜査を拒否しました。
📌 事件の意味
- 労働運動と人権運動の象徴
- 「ニューオーダー時代における人権侵害と司法の不作為」の代表的事件
- 現在も毎年5月に全国各地で追悼され、マルシナは**「労働者運動の殉教者」**と呼ばれています。
ウディン殺害事件(1996年)― 腐敗を告発した記者の死
汚職を暴いた地方記者の不可解な死
🌼 ウディンさんの人物像
フアド・ムハンマド・シャフルディン(Fuad Muhammad Syafruddin)、通称**ウディン(Udin)**は、
ジャワ島ジョグジャカルタ特別州出身の男性記者で、地元日刊紙「Bernas(ベルナス)」に勤務していました。
温和で礼儀正しく、同僚からは**「争いを好まず誠実だが、真実には妥協しない人」**と評されていました。
地域の小さな出来事にも丁寧に足を運び、住民からの信頼も厚かったといいます。
しかし一方で、権力者や軍に対しても一切忖度しない調査報道を続け、
「地方政治は軍と官僚に乗っ取られている」とまで書き切る勇気のある記者でした。
⚡ 事件の概要
- 1996年8月13日夜、ウディンはジョグジャカルタ郊外の自宅付近で覆面の男2人に襲われる。
- 頭部を鉄棒で殴られ重体となり、3日後(8月16日)に死亡。
- 金品は奪われておらず、殺人の動機は報道活動への報復とみられた。
⚖️ 捜査と裁判
- 当初、警察は「不倫関係をめぐる怨恨」として民間人1名を起訴したが、証拠不十分で無罪。
- ジャーナリスト団体AJI(独立ジャーナリスト連盟)や人権団体は、
当時ウディンが取材していたスレマン県知事候補の汚職疑惑と軍の土地取引不正が動機と指摘。 - しかし、警察・軍は一貫して政治的動機を否定し、真相解明は行われなかった。
🗣 家族や政府側の対応
- 妻のスリ・ラティ(Sri Rati)は「彼は権力を恐れなかったが、家庭では優しい父だった」と語り、今も真相解明を求めている。
- Komnas HAM(国家人権委員会)は再調査を勧告したが、法務当局は「証拠不十分」として却下。
- 警察・軍は「個人的動機による犯行」という立場を崩していない。
📌 事件の意味
- スハルト政権末期の報道弾圧と汚職構造を象徴する事件
- インドネシアの「記者の日」(Hari Pers Nasional)に殉職記者として毎年追悼されている
- 現在も「真実を伝えることの代償」として語り継がれている
1997〜98年 活動家拉致・失踪事件
ここから紹介する行方不明者は『1997〜98年活動家拉致・失踪事件(Tim Mawar事件)』として知られている一連の失踪事件の被害者『13人の失踪者(13 Orang Hilang)』の数人です。
Tim Mawar事件とは?
Tim Mawar事件は、スハルト政権末期の1997〜1998年に、インドネシア陸軍特殊部隊コパスス(Kopassus)内の秘密チーム「Tim Mawar(バラ部隊)」が、民主化を訴える学生や活動家を違法に拉致・拘束・拷問した国家犯罪事件で、少なくとも23人が連行され、国際人権団体や国家人権委員会(Komnas HAM)はこの作戦を組織的な強制失踪と認定しています。
13人の失踪者とは?
13人の失踪者(13 Orang Hilang)とは、このTim Mawar事件で連行されたまま今も生死・所在が不明な13人の活動家のことで、詩人ウィジ・トゥクルや学生活動家スヤット・ビモ・ヘルマン・実業家デディ・ハムドゥンらが含まれ、いずれも遺体も証拠も発見されておらず、加害者も処罰されていないため、今も毎年「民主化の犠牲者」として追悼されています。
「13人の行方不明者」一覧表
| 氏名 | 立場・所属 | 主に訴えていた内容 | 失踪日 | 失踪場所 |
|---|---|---|---|---|
| Wiji Thukul | 詩人・PRD支持者 | 労働者・貧困層の権利、スハルト政権への抵抗 | 1998年2月頃 | ジャカルタ〜ソロ周辺 |
| Petrus Bima Anugrah(ビモ) | PRD系学生活動家 | 民主化とスハルト政権退陣 | 1998年3月30日 | ジャカルタ |
| Suyat | SMID(PRD学生組織)活動家 | 軍政打倒と学生の政治参加 | 1998年2月13日 | ソロ(中部ジャワ) |
| Herman Hendrawan | 政治学研究者・PRD支援者 | 民主化運動の理論支援と組織づくり | 1998年3月12日 | ジャカルタ |
| Deddy Hamdun | 実業家・PPP支持者 | 公正な選挙と金権政治の是正 | 1997年5月29日 | ジャカルタ |
| Noval Al Katiri(Dindon) | PRD支援者 | 労働者の権利と社会的不平等是正 | 1997年末頃 | ジャカルタ |
| Yani Afri(Yani) | SMID活動家 | 学生運動の自由と民主改革 | 1997年後半 | ジャカルタ |
| Winand Triyadi | SMID活動家 | 学生の言論・結社の自由 | 1997年後半 | ジャカルタ |
| Ismail | PRD支持者 | 新秩序体制の腐敗批判と民主化 | 1997年後半 | ジャカルタ |
| Soni Baskoro | 学生活動家 | 民衆による政治参加と表現の自由 | 1997年後半 | ジャカルタ |
| Hasbi Abdullah | SMID活動家 | 軍の大学介入排除と民主教育 | 1997年後半 | ジャカルタ |
| Yanis(Marna) | SMID活動家 | 学生自治と軍政終結 | 1997年後半 | ジャカルタ |
| Hendra Hambali | PRD活動家 | 労働者・農民の連帯と民主化 | 1997年後半 | ジャカルタ |
デディ・ハムドゥン失踪事件(1997年)
突然消えた野党支持者の実業家
🌼 ハムドゥンさんの人物像
デディ・ハムドゥン(Deddy Hamdun, 生年不詳〜失踪)は、ジャカルタ在住の若手実業家で、当時スハルト政権に対抗していたイスラム系野党PPP(統一開発党)を支持していました。
活動家というより**政治的意識の高い市民で、仲間からは「情に厚く面倒見がいい兄貴分」**と呼ばれていました。
選挙制度の不正や金権政治を批判し、「選挙は形だけで結果は政府が決めている」と公言していました。
⚡ 事件の概要
- 1997年5月29日、ジャカルタ中心部の自宅前から突然姿を消す。
- 直前に野党系集会に参加していたとされ、複数の目撃証言で私服治安部隊に連行されたと報じられた。
- 以後、目撃証言もなく現在に至るまで行方不明。
⚖️ 捜査と裁判
- Komnas HAMは、デディを**「1997〜98年活動家拉致事件(Tim Mawar事件)」の犠牲者13名のひとり**と公式認定。
- 軍特殊部隊コパスス(Kopassus)内のTim Mawar関与が疑われるが、刑事責任は追及されていない。
- 1999年の軍法会議でも、彼の事件については言及されなかった。
🗣 家族や政府側の対応
- 妻と子どもが真相解明を求めてきたが、いまだ公式な捜査や遺体捜索は行われていない。
- 政府は「証拠不十分」として再捜査を拒否。
- KontraSは「軍が民間人を標的にした政治的拉致事件」と批判している。
📌 事件の意味
- 「活動家」でなくとも反体制的と見なされれば標的となったことを示す事件
- 民間人への拉致という点で、国家暴力の異常性を象徴
- 現在も「13人の行方不明者」のひとりとして追悼されている
詩人ウィジ・トゥクル失踪事件(1998年)
詩で民衆に抵抗を呼びかけた詩人が行方不明に
ウィジ・トゥクルさんの人物像
ウィジ・トゥクル(Wiji Thukul, 1963–失踪)は、中部ジャワ州ソロ出身の詩人・民主活動家。
貧しい仕立て職人の家に生まれ、家計を支えるために中学卒業後は印刷工や建設労働者として働きながら詩を書き続けました。
ふだんは穏やかで冗談好きでしたが、不当な扱いに沈黙することを嫌い、誰に対しても対等に話す性格だったといわれています。詩を武器として「声なき民衆」の苦しみを代弁し、労働争議や学生運動と連帯して活動しました。
代表作「Peringatan(警告)」では、
Apabila rakyat pergi / Polisi tidak lagi bisa memukul / Tentara tidak lagi bisa menembak
「民衆が立ち上がれば、警察はもう殴れず、軍はもう撃てない」
と詠み、抑圧的な権力への抵抗を鮮明に打ち出しました。
こうした詩は当時のデモでスローガンとしても使われ、政権にとって脅威視される存在になっていきました。
ウィジ・トゥクルさんの作品の一つをこちらで解説しています⬇︎

⚡ 事件の概要
- 1996年:労働者デモを支援したことで**「扇動罪」で指名手配**され、地下に潜伏。
- 1997年:ジャカルタやソロ周辺で、学生や労働者とともに民主化運動を続行。
- 1998年2月頃、突然消息を絶つ。
- 以後、目撃証言もなく、現在に至るまで行方不明。
⚖️ 捜査と裁判
- Komnas HAM(国家人権委員会)は、ウィジ・トゥクルを「1997〜98年活動家拉致事件(Tim Mawar事件)」の『13人の行方不明者』の一人と公式認定。
- この事件では、軍特殊部隊コパスス(Kopassus)内の「Tim Mawar(バラ部隊)」が活動家を違法拘束したとされ、少なくとも23名が拉致され、9名が帰還、1名死亡、13名が今も行方不明とされている。
- 1999年に軍法会議で数名の将校が「規律違反」で有罪となったが、拉致・殺害の罪では起訴されなかった。
🗣 家族や政府側の対応
- 妻シプトラ・ウィダニンシ(Sipon)は「彼は死んだかもしれないが、声は生き続けている」と語り、
現在も詩の朗読会や記念イベントを主催している。 - 家族は繰り返しKomnas HAMに訴えているが、政府は「証拠不十分」として再捜査を行っていない。
- 人権団体KontraSは「国家犯罪であり、政府は真相を隠している」と非難している。
📌 事件の意味
- 民衆に抵抗を呼びかけた詩が、国家にとって「脅威」になった象徴的事件
- 1997〜98年活動家拉致事件における13名の行方不明者の代表的存在
- 現在も「声を奪われた詩人」として、学生や労働者の間で語り継がれている
学説活動家スヤット失踪事件(1998年)
軍政打倒を訴えた若き学生活動家の行方不明
🌼 スヤットさんの人物像
スヤット(Suyat, 生年不詳〜失踪)は、民主主義学生連合 SMID(Solidaritas Mahasiswa Indonesia untuk Demokrasi) に所属していた若手学生活動家です。SMIDは左派系政党PRD(人民民主党)の学生部門として活動しており、スヤットはその地方支部でビラ配布や集会運営を担っていました。
仲間によると、スヤットは物静かで控えめだが、正義感が強く、曲がったことが嫌いな性格で、
学生仲間からは「表に出るより裏で支えるタイプ」と慕われていました。
しかし政府や軍による弾圧に憤りを感じ、ビラでは
「スハルトは退陣せよ! インドネシアの未来は軍ではなく人民の手にある」
と訴えていました。
⚡ 事件の概要
- 1998年2月13日、中部ジャワ州ソロ市で活動家仲間と会合後に突然消息を絶つ。
- 同席していたメンバーはその後解放されたが、スヤットだけが戻らなかった。
- 以降、目撃証言もなく、現在に至るまで行方不明。
⚖️ 捜査と裁判
- Komnas HAM(国家人権委員会)は、スヤットを**「1997〜98年活動家拉致事件(Tim Mawar事件)」の犠牲者13名のひとり**と公式認定。
- この事件では、**軍特殊部隊コパスス(Kopassus)内の「Tim Mawar(バラ部隊)」**が活動家を違法拘束したとされ、
少なくとも23名が拉致され、9名が帰還、1名死亡、13名が今も行方不明とされている。 - 1999年に軍法会議でTim Mawar関係者が「規律違反」で処分されたが、強制失踪としての刑事責任は問われていない。
🗣 家族や政府側の対応
- 両親は「息子はただ正しいと思うことをしただけ」と語り、今も真相解明を求めている。
- 政府は「調査中」としつつも、実質的な再捜査や遺体捜索は行っていない。
- KontraS(失踪者・暴力被害者のための委員会)は**「国家による強制失踪」**と非難している。
📌 事件の意味
- スハルト政権末期の学生運動弾圧の象徴的存在
- 1998年5月暴動直前に相次いだ活動家失踪の代表例
- 現在も「13人の行方不明者」のひとりとして追悼されている
ペトルス・ビモ・アヌグラ失踪事件(1998年)
民主化を訴えた学生活動家の行方不明
🌼 ビモさんの人物像
ペトルス・ビモ・アヌグラ(Petrus Bima Anugrah, 通称ビモ)は、インドネシア国立大学の学生で、左派系民主運動組織 PRD(人民民主党)の若手活動家でした。
温和で真面目な性格で、議論より実務を好み、現場で働くことをいとわないタイプだったと仲間は語ります。
労働者や農民のストライキ現場に足を運び、横断幕作成や会計支援など地道な裏方活動に尽力していました。
しかし、スハルト政権の汚職や不平等に憤り、デモでは「スハルト政権は民衆の富を奪っている」
と演説し、民主化と軍政の終焉を訴えました。
⚡ 事件の概要
- 1998年3月30日、ジャカルタで行われたデモ行進に参加後、突然消息を絶つ。
- 同行していた活動家らはその後釈放されたが、ビモだけが戻らなかった。
- 以後、目撃証言もなく現在に至るまで行方不明。
⚖️ 捜査と裁判
- Komnas HAM(国家人権委員会)は、ビモを**「1997〜98年活動家拉致事件(Tim Mawar事件)」の犠牲者13名のひとり**と公式認定。
- この事件では**特殊部隊コパスス(Kopassus)所属の「Tim Mawar(バラ部隊)」**が活動家を違法拘束したとされ、
少なくとも23名が拉致され、9名が帰還、1名死亡、13名が今も行方不明とされている。 - 1999年に軍法会議で数名の将校が「規律違反」で有罪となったが、拉致や殺害の罪では起訴されなかった。
🗣 家族や政府側の対応
- 両親は「息子は人の役に立ちたいだけだった」と語り、今も真相解明を訴え続けている。
- 政府は「調査中」としながらも、実質的な再捜査や遺体捜索を行っていない。
- KontraS(失踪者・暴力被害者のための委員会)は**「国家による強制失踪」**と非難している。
📌 事件の意味
- スハルト政権末期の民主化運動弾圧の象徴
- 1998年5月暴動直前に相次いだ活動家失踪の代表的事例
- 現在も**「13人の行方不明者」**のひとりとして追悼されている
ヘルマン・ヘンドラワン失踪事件(1998年)
民主化を支援した研究者の行方不明事件
🌼 ヘンドラワンさんの人物像
ヘルマン・ヘンドラワン(Herman Hendrawan, 生年不詳〜失踪)は、インドネシア国立大学の政治学研究者で、PRD(人民民主党)系の民主化運動を支援していた人物です。
学者肌で冷静沈着、感情的にならず理論とデータを重んじる性格だったと仲間に語られています。
前線でデモに立つタイプではなく、学生や労働者に対して戦術・歴史・政治構造を教える役割を担っていました。
⚡ 事件の概要
- 1998年3月12日、ジャカルタで活動家仲間と会合後に消息を絶つ。
- 同席していた数名は数日後に解放されたが、ヘルマンだけが戻らなかった。
- 以降、目撃証言もなく現在に至るまで行方不明。
⚖️ 捜査と裁判
- Komnas HAM(国家人権委員会)は、彼を**「1997〜98年活動家拉致事件(Tim Mawar事件)」の犠牲者13名のひとり**と公式認定。
- 軍特殊部隊コパスス(Kopassus)内の「Tim Mawar」が関与したとされるが、刑事責任は追及されていない。
- 1999年に関係将校が軍法会議で「規律違反」で有罪となったが、強制失踪罪では起訴されなかった。
🗣 家族や政府側の対応
- 家族は「彼は武器ではなく知識で民主化を支えた」と語り、真相解明を求め続けている。
- 政府は「調査中」としつつ、再捜査や遺体捜索は行っていない。
- KontraSは「国家による強制失踪」として非難している。
📌 事件の意味
- 学問的支援者も弾圧対象となったことを示す事件
- 1997〜98年活動家拉致事件における「知識人」失踪の象徴
- 現在も「13人の行方不明者」のひとりとして追悼されている
最新情報:2025年8月デモの行方不明者について
8月末の全国的デモでは、多くの若者・学生・ライダー(オジェック運転手)などが参加し、議員の手当の大幅見直しや警察改革などを求める声が高まりました。
その中で、少なくとも20名のデモ参加者が行方不明になっているとの報道があります。行方不明者はバンドン、デポック、市内全域のジャカルタ(中部・東部・北部)など複数地域にわたっており、場所が特定されていないものも含まれます。
人権団体 KontraS(失踪者・暴力被害者のための委員会) は、「行方不明の20名について捜索と検証を行っている」と声明。これに対し、人権大臣は捜索チームを派遣し、少なくとも「3名の失踪者を発見すべく捜索を進めている」と発表しました。
なぜ市民は懸念しているのか:歴史とのつながり
過去の失踪事件の記憶が今も生きている
マルシナ事件(1993年)、ウディン殺害(1996年)、Tim Mawar事件(1997–98年)など、政府や軍に批判的な言論活動や抗議活動に関わった人々が失踪や殺害に見舞われた事例が多く公開記録に残っています。多くが真相未解明で、加害者への処罰が行われなかったため、深い社会的不信が根強く残っています。
今回も「知らせのない失踪」が起きている
若いデモ参加者が「突然消えた」と報道されることで、過去と同様の強制失踪や非公開拘束が行われたのではないかと市民が懸念するのは自然な流れです。
政府・治安部隊への不信
デモへの強硬対応や逮捕・拘束の対応について透明性が不足していると感じられており、行方不明者が出るたびに「また同じことが繰り返されているのか」という恐れと怒りが広がっています。
まとめ|インドネシアで繰り返される「声をあげた者」の失踪
8月末のデモで行方不明になっている人々は、ただの「逮捕されただけ」とは違い、名前も居場所もわからない「失踪状態」にあることが市民の大きなの懸念です。
過去の犠牲(マルシナ、ウディン、トゥクルら)と同じ構図が繰り返されていないか、真相が明らかにされ、責任が問われることを社会全体が求めています。
参考文献
🟥 国際人権団体・報道資料
- Amnesty International. Labour Activists Under Fire (1994)
マルシナ事件を含むニューオーダー期の労働運動弾圧についての国際人権報告書。 - Human Rights Watch. INDONESIA: NEW DEVELOPMENTS ON LABOR RIGHTS (1994)
マルシナ事件後の労働権抑圧と司法不備についての詳細報告。 - Business & Human Rights Resource Centre (2024)
Komnas HAM(国家人権委員会)がマルシナ事件の再調査を検討と報じた記事。
🟥 Tim Mawar事件・13人の失踪者に関する資料
- Komnas HAM(国家人権委員会)公式発表:Laporan Penyelidikan Pelanggaran HAM Berat Kasus Penghilangan Orang Secara Paksa 1997/1998
1997〜98年の強制失踪事件(13人行方不明者)に関する正式調査報告。 - KontraS(失踪者・暴力被害者のための委員会)特集ページ
13人失踪者一覧、Tim Mawar関与の証拠、家族による証言・請願活動。 - BBC Indonesia「Siapa Tim Mawar dan apa kaitannya dengan penghilangan aktivis 1997-1998」(2019)
Tim Mawar(バラ部隊)の正体と、活動家失踪との関連を解説した記事。 - The Jakarta Post「Komnas HAM declares 1997-98 abduction a gross human rights violation」(2006)
Komnas HAMが本事件を「重大な人権侵害」と認定した報道。 - Tempo Magazine「Jejak Tim Mawar」(2019特集)
Tim Mawar元隊員への取材と、拉致作戦の実態を描いた長編調査記事。
🟥 ウィジ・トゥクル関連資料
- Inside Indonesia「Where is Wiji Thukul?」
失踪前後の活動、政権批判の詩、当局の対応を詳述。 - Cogitatio Press「The Flower and the Wall: Poet‐Activist Wiji Thukul and Progressive Martyrdom in Post‐Suharto Indonesia」(2024)
トゥクルの詩的・政治的遺産について論じた最新論文。 - Taylor & Francis「Remembering Wiji Thukul, Indonesia’s Murdered Poet-Activist」(2023)
失踪後も続くトゥクルの象徴的存在についての研究論文。 - Asia-Pacific Solidarity Network / Jakarta Globe (2020)
トゥクルの息子が父の足跡を追ったドキュメンタリー作品を紹介する記事。 - Indoleft(2019)
家族が元軍司令官プラボウォに説明を求めたと報じる記事。
